教室における教師の活動のかなりの部分は生徒に向かって話すということによって占められる。通常の状況で教授=学習を考える場合に、我々はことばを抜きにした状況を考えることはできない。いったい、教授=学習のプロセスにおいて、ことばはどのようなはたらきをするのであろうか。或いは、もっと正確に云うならば、教授学習ということとことばとはどのようにかかわりあうのであろうか。アウグスティーヌスの「教師論」1)(De magistro 397年)はこのような問題に対するアプローチの古典的な一例であろう。以下において、この「教師論」を中心として、教授=学習の成立と言葉の機能との関連を考察することにしたい。
I 教師 --「内的教師」と「外的教師」--
1.「あなたたちの教師はただひとり、キリストである」
アウグスティーヌス(354-430年)は教育の実践的な問題に関して、「キリスト教教育論」(De doctrina Christiana, 397年)や「初心者教理教授論」(De catechizandis rudibus, 400年)2)などを著わしているが、それ以前に、「教師論」を著わして、教育の本質的な問題を論じている。この著作はアウグスティーヌスと彼の息子アデオダートゥスとの対話の形になっており、実際に16才のアデオダートゥスが父と対話したものの筆記であると考えられる。後に、アウグスティーヌス自身が自己の全著作について記した「再補録」(Retractationum, 426年)によれば、この「教師論」において「論じられ、探求されそして見出されたことは、人間に知識を教える教師は神のほかにはいないということである。」3)これはいかにも奇妙な教師論である。神以外には教える者はいないというなら、人間はいったい何をするのであろうか。
ところで、このことは何もアウグスティーヌスが云い出したことではなく、既に福音書が云っていたことである。即ち、そこではこう云われている。「あなたたちの教師はただひとり、キリストである。」(Unus est magister vester, Christus. マタイ 23, 10)4)アウグスティーヌスはこの福音書の命題から出発して議論しているのではなく、息子アデオダートゥスと言葉に関する長い対話を交わした末に、この命題と同じ帰結に到達したんである。
我々は、アウグスティーヌスがこの著作の終りの方で到達した結論をまず最初に検討することによってアウグスティーヌスにおける教授=学習のプロセスを明らかにすることから始めよう。「我々が教えられるのは、神が我々の内面に開いて明らかにし給う事物そのものによってである。」(docetur...ipsis rebus, Deo intus pandente, manifestis, XII, 40)これはいかなる意味であろうか。我々が内的に、神によって照らされるということがなければ、そもそも教えるとか学ぶとかいうことはありえないというのである。
2. 教授=学習のプロセス
教授=学習のプロセスを考える場合、我々は常識的に一方の側に教える者としての教師を、他方の側に学ぶ者としての生徒を想定し、教師から生徒への知識の伝達が行われるというふうに考えてはいないだろうか。このような考えに立てば、教師は一方的に教える者であり、生徒は一方的に学ぶ者である。ここでは教えることと学ぶこととは、明白に異なるはたらきとしてとらえられている。さらに、知識の伝達ということについても、それは教師のことばによって生徒のうちに知識が移されることだと考えられ易い。このような考えにおける教授=学習のプロセスを単純化して云えば、教師=能動者、生徒=受動者、前者から後者へと知識を運搬するものとしてのことば、という三つの要因が場を構成し、そこに知識の一方的な流れが起 るという事態であろう。
アウグスティーヌスはまさにこのような考え方を拒ける。彼は教えることと学ぶことを全然別のものと考えたり5)、教師が生徒に知識を注入する6)と考えたりすることを拒否する。いな、彼は人間の教師はほんとうの意味では教えることさえできないのであって、ただ、人間の内面に住み給う神のみが教えることができると断言するのである。しからば、アウグスティーヌスは教授=学習のプロセスをどのような構造のものとしてとらえているのであろうか。
アウグスティーヌスはもちろん、世に教師と呼ばれる者、生徒と呼ばれる者の存在を否定したり、無視したりするのではない。彼自身、長い間修辞学の教師であったし、回心の後も広い意味で、キリスト教の教師であった。私はここで、アウグスティーヌス自身はことばそのものとしては使ってはいないけれども後にトマス・アクィナスが使うことになった「内的教師」(magister interior)、「外的教師」(magister exterior)という概念を採用することによって、アウグスティーヌスの教師観を明らかにしてみたい。まず、我々が教師と云うときに思い浮かべる人間の教師、アウグスティーヌスもそうであった教師を我々は「外的教師」と呼ぶことにする。この「外的教師」はことばの狭い、厳密な意味では「教える」(docere)というよりはむしろ「勧める」(admonere)8)というはたらきしかしない。つまり、この意味での教師は生徒を教えるのではなくて、むしろ「ことば」によって、生徒が「学ぶ」(discere)ように「勧める」のである。或いは、この教師は生徒がすでに知っている事柄を「想起させる」(commemorari)9)だけである。では「学ぶ者」(addiscens)、「生徒」(discipulus)はどのようにして学ぶのであろうか。人間の教師によって教えられるの� ��はないとすれば、生徒はそもそも教えられるということはないのであろうか。教えるということと学ぶということとが全く異なった機能であるとすれば、教えられることは全くなくても、学ぶことはあるとも考えることができる。アデオダートゥスも、最初はそう考えていたようである10)。しかし、その考えは後に修正されることになる。生徒のなかで学ぶということと教えるということとが同時に成立するようなそういう構造を考えなければならない。「外的教師」のことばによって生徒はそのことばの指示する事物へと向けられる。それから先は生徒のなかで起る事柄である。いったい、生徒のなかで何が起るのであろうか。生徒は事物そのものによって、教えられるのであって、教師のことばによって教えられるのではない11)。「� �的教師」にとって必要なことは、事物そのものを生徒「の前に置く」(praebere)ことであり、アウグスティーヌスは、そうすることを「教える」ことだとも云っている12)。生徒のなかで教えるということが何によって起るのか、それは「事物そのものによって」(rebus ipsis)である。アウグスティーヌスによれば、この事物そのものは物質的な物に限らず、霊的なもの、精神的な事柄も含まれるのであって、この「事物そのもの」が生徒のうちに「神によって内面に開かれて明らかにされる」のであり、この神こそ我々が「内的教師」と呼ぼうとする御方である。「内的教師」は生徒の内にあって生徒の精神を照らす霊的な光13) であり、生徒において学習が成立するためにはまさにこの「内的教師」による教授を俟たなければならないのである。このように見てくれば、「教える」ことと「学ぶ」ことは一個の主体において統一されたものとして考えられるのであって、決して分離して考えられるべきものではない。
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3.アウグスティーヌスにおける「光」のアナロジー 以上見てきたことが、アウグスティーヌスが「神ひとりのほか人間に知識を教える教師はいない」と云ったことの意味である。アウグスティーヌスの認識論の詳細な点についてはここでは触れないことにする。ただ、ここで簡単に、アウグスティーヌスの「照明説」といわれるものを見ておこう14) 。知性による理解のはたらきは感覚的な眼のはたらきとの類比において考えられている。我々の眼もそれ自身で一つの光である。しかし、その光はそれだけで外界の事物を照らし、眼がそれを見得るようになるほどには強くない。我々がものを見るためにには、更に外的な強い光が必要である。これと同様のことが知的理解について云える。人間は神の光、真理の光に照らされることによってはじめて真理を知ることができる。この真理の光は、外的な光である太陽光線などとちがって、我々の外に輝くのではなくて、我々の内部に輝く内なる光である。この内なる光に照らされることによってのみ我々は知識を獲得することができるのである。これがアウグスティーヌスの照明説の核心であり、それは人間が知識の獲得に際して決定的に� ��に依存していることを明らかにするものである。この照明のはたらきはアウグスティーヌスにとっては自然的なはたらきであって何ら超自然的、神秘的な問題にかかわるはたらきではない。ちょうど、太陽が全地のすべてのひとに恵みの光を注ぐように、神もすべてのひとの内面に照り輝いて、彼らが真理を見るようにし給うのである。 4.学習の真相 教師は神ひとりのほかにいないということは、ことばを変えて云えば、人間を教えるものは真理以外にはないということにほかならない。アウグスティーヌスはそのことを内面の真理に照らされると云ったのであり、学習者を自らの内なる真理に「助言を求める者」(conculens)15)として見たのである。「内的教師」は学習者のうちにあって、しかも学習者と同一ではない。学習者は「外的教師」の勧めによって、自らの内部に住み給う「内的教師」に助言を求める。その「内的教師」の照明によってはじめて彼のうちで学習が成立する。すでに述べたように、学習は常識がそう信じがちであるように、知識を外から注入されることではない16)。アウグスティーヌスは教授=学習のプロセスを主として教師の側から考察した。しかし、教授と 学習は人間的平面においては決して明白に区別された機能ではありえない。つまり、教授の機能は一方的に教師に属し、学習の機能は専ら生徒に属するといった仕方で固定的、機械的に考えられる機能ではないのである。
教授=学習のプロセスは以上のような構造の中で進行するのであり、学習の真相はこのような構造の中でのみ明らかにされるであろう。教授=学習過程の中心に立つのは「外的教師」ではなくて、生徒であり、「内的教師」である。我々がこのことを認めるとき、ここに学習者の能動性・自発性ということが当然のこととして出てくる。学習は「外的教師」の熱意や努力によって達成されるのではなくて、学習者による「内的教師」への相談の結果としての「内的教師」の照明によって達成される。学習者が「内的教師」に助言を求め、相談するということは学習者の能動性・自発性を俟ってはじめて可能なことである。つまり、学習の成立にとって決定的な要因は学習者の意欲・自発性ということである。「外的教師」がどのように� �力を傾けても、それだけでは何ごとも起りえないのであって、学習は相変らず学習者の「内的教師」への意欲的な方向転換17)とともに成立するという基本的事実は変らないのである。
II ことば --「内的ことば」と「外的ことば」--
1.教師のことばと学習 アウグスティーヌスの「教師論」は全部で14章46節から成っているが、その殆どの節がことばの吟味に捧げられている。そこでは「教師論」という題名から一般に想像されるような教師の資質とか社会的役割がその内容なのではなくて、記号としてのことばの吟味を通して教師の限界と責任が明らかにされていると見てよいだろう。
通常我々は教師が話すことばが生徒の学習の原因であると考えやすい。既に見たように、このような考え方はアウグスティーヌスによって拒けられた。生徒は教師のことばによっては教えられないのであって、ただ自ら学ぶように、自ら探求するように勧められるにすぎない。してみると、教師のことばは学習の成立という事実の中では周辺的な位置を占めると考えられるであろう。
アウグスティーヌスは「話すことと教えることとは別のことがらである」18)と云う。生徒に向かって話をすることがただちに生徒を教えることになると考えるのは早計である。ことばはそれの背後にある実在、事実の一つの記号、シンボルである。当然のことであるが、我々が「ライオン」ということばを発するときに、話している口からライオンがとびでてくるわけではない19)。ことばと事物がはっきりと区別され、ことばによってではなく、事物によって我々は学ぶのだということが重要である。つまり、教師はことばが表示するところの事物そのものを生徒に示さなければならないのである。しかしこのようなことは厳密に云えばとても実行できるものではない。教室における教師の活動の大部分はことばをもってする活動� ��ある。記号或いはシンボルの一つであることばとそれが記号化或いはシンボル化している事物、実在との間にはっきりした区別を認めさせ、同時にその間に密接な関連をつけさせることは教師の重要な任務の一つである。また、「ことばを聞いても、精神がそのことばがそれの記号である事物へ導かれないかぎり、我々は全く会話することができない」20)。或いはまた、「ことばによって表されている事物の側面からでなければ、質問には答えるべきではない。」21)アウグスティーヌスのこれらの見解はことばと意味、ことばと観念の区別に関係するものである。教師がことばを話すことによってただちにそのことばの意味、観念が生徒の精神の中へ運ばれると考えることはできない。「教えることと話すこととは別のことがらである」� �いうことは、教師が話すことと生徒が学習することとの間に直接的な因果関係を設定することは誤りであるということである。「もし我々がもう少し注意深く考察するならば、あなたはおそらくそれ自身記号によって学ばれるものは何もないということを見出すでしょう。私に記号が与えられるとき、もし私がそれがどんな事物の記号であるかを知らないならば、それは私に何も教えることはできませんし、反対にもし、私がそれを知っているならば、記号によっていったい何を私は学ぶのでしょうか。」22)従って、「与えられた記号によって事物そのことが学ばれるよりはむしろ認識された事物によって記号が学ばれる」23)のである。我々がある事物をすでに知っていれば、その記号としてのことばの提示は我々にその事物を教えるので はなくて、その事物を思い出させるにすぎない。他方、我々があう事物を知らないならば、それの記号はそれがなんであるかを我々に教えることはできない。つまり、ことばの意味は事物そののをよく知ることにおいてはじめて知られるのである。事物そのものをよく知るということは学習する者自身がそうすることであって、教師はそこでは学習する者と事物との間に介在する存在としてあるのではなくて、いわば学習の成立という状況の外部に立つ者である。学習する者にとって、ことばは最初は単なる一つの音声であり、その音声が彼にとって一つのシンボル、一つの有意味のことばと変化するのは、彼がよく知っていた事物に対することばとしてそれを認知するときである。つまり、記号の提示によって一つの音声がシンボルへ変� ��するのではなくて、事物を実際に見た後にその音声はその事物の記号であるということが知られてはじめてシンボルとなるのである。
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以上のようにみてくると、教師のことばと学習とは原因結果の系列で考えられないことは明らかである。教師は、生徒が直接に経験することによって学習した事物について、生徒に想像させることができるにすぎない。しかし、我々は教師の語ることばによって生徒が学習するという印象をどうしても捨てることができない。アウグスティーヌスはその事態を次のように説明する。それは「多くの場合、語る瞬間と認識する瞬間との間に何らの間隙も置かれないからであって、学習する者は語る者の助言の後に速やかに内面において学習するから、あたかも助言する者から外的に学んだかのように思う」24)のである。このように教師のことばと生徒の学習との間の瞬時性が我々に� ��覚を起こさせるのであって、この錯覚を事実と考える者は時間性と原因性とを混同する者である。 教師のことばの機能について、アウグスティーヌスが指摘している基本的な点を挙げておこう。
1)生徒は教師のことばを聞くことによって学ぶのではなく、事物そのものを見ることによって学ぶ。教師はことばが表示している実在そのものを生徒に示さなければならない。
2)ことばはそれが特定の文脈の中で果たしている実際的機能に従って理解されなければならない。教師の用いることばはシンボルないしサインであって、生徒をある事物、ある実在へと向けるはたらきをする。
3)教師のことばは生徒がすでに自らの直接的経験によって知っている事物を生徒に想起させるにすぎないのであって、教師の思想観念を直接生徒の精神の中へ運び入れる媒体として考えることはできない。
4)教師はことばによって、生徒が未だ知らない事物を自ら知るように勧め、或いは刺激することができる。教師の仕事は生徒たちの知識への欲求を喚起することであり、そのためにこそことばを用いるのである。生徒がただ彼自身の精神の活動によってのみ学ぶということを理解でいる教師はそのためにことばを選び、細心の注意をしながら語るであろう。
5)教師のことばが果たす最も重要な機能の一つは質問することである25)。教師は質問することによって、せいとが内的に学習することを援助する。教師の質問が生徒自らの学習の助けとなるのは次のような理由による。生徒は未だその見る力が弱いのであって、問題を全体として照明することができない。全体を構成している部分を次々に質問されることによって、生徒は全体については不可能であったあの照明を部分的になすことが可能となる。教師の質問は生徒自身が「内的教師」すなわち内なる光に助言を求めるように勧めるはたらきをしたことになる。つまり、仮に教師の質問のことばが生徒を導くということが云われるとしても、それはことばによって教えるということによってではなく、質問された生徒が自ら内的� �学習することができるおうな仕方で質問されることによってのみ云われうることなのである。さらにまた、教師の質問は生徒の能力、発達段階に応じたものでなければならない26)ということも注意する必要があろう。
6)生徒は教師のことばを外的援助として内的に真理を見るのであるが、この見ることができる者、すなわち学習者は「内的に真理の生徒であり、外的には語る者の、或いはむしろ話そのものの裁き手である」27)。学習する者は教師の生徒というよりはむしろ真理の生徒と呼ぶべきである。このことは教師も生徒も真理の前には本質的に同じ者として立つということを意味する。そして、生徒は教師のことばを無批判に鵜呑みにするのではなくて、教師が真理を云っているかどうかを判定する者だと云われている。教師は決して生徒の前で言葉をおろそかに用いるべきではない。
7)一般にことばと精神内容、観念とは必ずしも一致するものではないということが留意されなければならない。アウグスティーヌスは話し手自身が自分の云っている本当の意味を知らないで話す場合、嘘をついたり、欺いたりする人の場合、心の中であることを考えながら、記憶にとどまり繰り返し語られた別の話が口から出される場合、我々の意に反して舌そのもののまちがいによってあることばの代わりに他のことばがでてくる場合、話し手同志が同じことばによって違ったことがらを考える場合などを挙げている。教師は以上のような場合のことを考慮に入れて、ことばを用いるに際しては十分に注意しなければならない。特に多数の生徒たちによってひとつのことばでさえも完全に同じ意味に受け取られることは稀であ� ��ということを知らなければならない。
以上、教師のことばと学習という問題について述べてきたが、ここで明らかとなったことは教師のことばは、生徒の学習という状況において外的なものとして教授=学習過程の側面的要素を構成するということであった。つまり、教師のことばは「外的ことば」(verbum exterius)であって、生徒の学習成立の直接的原因ではなく、生徒が自らの内部で学習を成立せしめるように刺激し、促し、勧めるはたらきをするところの、必要ではあるが本質的ではない条件の一つである。
ところで、生徒が事実そのものによって学習するということ、そしてことばと観念とは区別されるべきであるということを我々が認めるならば、我々はここで次に、生徒自身のいわば内面において遂行される学習成立の内的プロセスを考察するために、「内的ことば」(verbum interius)と呼ばれるものを見当しなければならない。
2.「内的ことば」 アウグスティーヌスは「外的ことば」を次のように定義している。「分節された音声によって或る意味を伴って発せられるすべてのものはことばと呼ばれる」28)。彼はこのようなことば以外に次のようなことばを挙げている。「我々は、何ら音声を発しないときでも、ことばそのものを考えているから、内的に精神において話す(intus apud animum loqui)」29)と。アウグスティーヌスがここで区別している二つのことばのちがいは、音声で表出されるか、心の中だけで考えられるかのちがいであって、いずれも特定の国語としての形をもったことばである。しかし、或る意味でこれを「内的ことば」と考えることもできる30)。われわれは、ここでアウグスティーヌスが「内的ことば」をどのように考えているかを見るために、『教師論』以外の著作を参照することにしよう。
『三位一体論』(De trinitate)31)において、彼はことばのいろいろな意味を挙げている32)。1)それが発音されるにせよ、思考されるにせよ、そのシラブルが一定の時間を占めることば。2)知られるすべてのもの、それが記憶から出て来ることができ、また定義されううるかぎり、精神のうちに刻印されたことばといわれる。3)愛を伴った知識(cum amore notitia)。この2)と3)でいわれていることばは「内的ことば」であると考えることができる。「我々は事物の真なる知識を我々のうちにことばとして所有する。そして我々はそれを話すことによって産み出す。しかっそれは産み出されることによって我々から離れてしまうわけではない。我々が他の人々に語る場合に、我々は内部にとどまっていることばに、音声或いはある物体的な記号の機能をつけ加えて、話す者の精神から離れ去るのではないようなそのようなあるもの(ことば)をある種の感覚的な想起によって聞く者の精神のうちにも生ぜしめるのである」33)。アウグスティーヌスは更に第15巻においてもことばについて次のように述べている。「考える者は誰でも、たとえことばを発音しないとしても、その心のうちで語る のである」34)。「自分自身の内部で、そのこころのうちで語るということは、換言すれば、考えるときに語るということである」35)。「或る種の思想(cogitationes)は心のことば(locutiones cordis)である」36)。「内的なことば(locutiones interiores)、すなわち思想」37)。アウグスティーヌスによれば、「内的ことば」はいかなる言語にも属さない、つまり特定の国語のうちのどれかに属するものではないのである。いかなる国語もある特定の観念を表す名をもっているが、観念そのものはただちに国語なのではない。
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「それ故に、外的に発音されることばは内部に輝くことばの記号である。ことばという名称はこの後者により適当する。何故なら、肉の口から発声されるものはことばの音声であり、またそれ自身ことばとも云われるが、そのりゆうは、内的ことばが外部に現れるために音声をまとったからである。」38)アウグスティーヌスはここで「内的ことば」こそ本来的にことばという名に値すると云っているのである。「すべてのことばは、どんな国語で発音されるにせよ、また同様に沈黙のうちに考えられる。そして歌は、肉体の口が黙していても精神を通じて流れて行く。--単にシラブルの数だけでなく歌のメロディーもまた、それらが物体的で、そして聴覚と呼� �れる身体の感覚に属しているから、そのある種の非物体的表象によって、それを考え、沈黙のうちにそれらすべてのものを思いめぐらしている人々に現前するのである。」39)「従って、我々はかの人間のことば、理性的な魂をもつ者のことば、神から生まれたのではなく、神から作られた神の似姿のことばへと到達しなければならない。このことばは音声において発音されたり、音声の似姿において考えられたりすることのできないものである--そのことばはどのような国語にとっても必然的なことであるが--。このことばはそれによってこのことばが表されているすべての記号に先立ち、精神のうちにとどまっている知識から、この同じ知識が、ちょうどそれがあるがままに内的に語られるときに、生まれる。何故なら、思想の直視は知� �の直視に非常に似ているからである。何故ならそれが音声によって、或いは何かの物体的記号によって語られる場合には、それはそれがあるとおりに語られるのではなくて、身体を通じて見られたり、聞かれたりできるものとして云われるからである。それ故に、知識のうちにあるものがことばのうちにある場合にはそのれは真のことばであり、そして人間から期待されるところの真理である。その結果知識のうちにあるところのものはまたことばのうちにある。そして知識のうちにないものはことばのうちにもないのである。」40)「心のうちで予めかたられないような人間の行為は何もない。」41)
以上、少し長くなったが、アウグスティーヌスが『三位一体論』においてことばについて言及している個所をいくつか引用した。アウグスティーヌスはこれらの個所において、神の第二のペルソナなる「みことば」と人間のことばとを比較対照している42)。「内的ことば」についていわれた基本的な点をもう一度ここで確認しておこう。
1)「外的ことば」が物体的側面をもっているのに対して、「内的ことば」は霊的である。
2)「外的ことば」がある事物のシンボルにすぎないのに対して、「内的ことば」は霊的実在そのものである。
3)「外的ことば」は「内的ことば」の記号である。
以上のことと確認ののちに、我々は教授=学習とのかかわりあいにおけることばの問題について次のように云うことができるであろう。教師は生徒にことばを直接的に伝えることはできるが、思想を直接に伝達することはできない。ことばと観念、話すことと考えることとはその本性からして全く異なったものである。厳密に云うならば、教師が生徒に知識を「伝達する」ことはありえないのであって、ただ教師は生徒の内部で知識がせいりつすることをいわば外的に援助するにすぎないのである。その生徒の内部での知識の成立ということにとって決定的に重要なものとして我々は「内的ことば」というものを考えることができる。教師の「外的ことば」を機械的に暗記することによって学習が成立すると考えるのは愚かな誤りであ る。学習する者は教師の「外的なことば」の励ましと刺激によって、教師の「外的ことば」が表示している事実そのものを見、そのことによって再びその事実そのものを自らの「内的ことば」へと転じなければならないのである。「もしも教師のことばが学習者によって、シンボリックなものとしてよりもむしろインフォーマティヴなものとして、思想への刺激としよりもむしろ思想の代用として受け取られるならば、教育は不毛となり、常に拡大していく理解力の発達という挑戦を欠くであろう」43)。
学習する者は「外的ことば」の機械的模倣ではなくて、「内的ことば」における成長を目標とすべきである。換言すれば、「外的ことば」は一般に教育の重要ではあるがしかし単なる手段である。それに対して「内的ことば」は学習者がそれに向かって成長すべき教育の目的である。「内的ことば」における成長、すなわち、理解、洞察における成長ということなしに、教授=学習はその本来的意味を持ちえない。
アウグスティーヌスは『三位一体論』のほかに『初心者教理教授論』や『キリスト教教育論』においても、ことば、記号の問題を取扱っている。例えば、『初心者教理教授論』において、「心の中に感じる直感的な悟り、記憶にとどめられるこの悟りの足跡、その足跡をもとにしてその記号として表現されることば」44)といういわば三つの層を区別している。また、『キリスト教教育論』において45)、事物と記号について論じている。その他、『魂の大きさについて』においても46),ことばと音声と意味について検討している。これらの文献についてはその詳細な検討は機会を改めて行いたい。『教師論』においてはアウグスティーヌスは「外的ことば」について、それに「しかるべきである以上のものを与えるべきではない」47)とい う考えに立って論じた。そして彼はまさに「外的ことば」にしかるべき役割を与えたのである。
むすび
我々は簡単ながらアウグスティーヌスにおける教師の概念とことばの概念の二重性或いは多義性を分析しながら、教授=学習のプロセスの構造的連関、それとのことばのかかわり合いを追求した。そ こで明らかとなったことは、結局のところ、教師と我々が一般に呼んでいる者は教授=学習のプロセスのいわば外側に立つ者であること、彼は「外的ことば」によって学習する者に「内的教師」に助言を求めるように勧めるはたらきをすること、学習する者は「内的ことば」を活発にすることにおいて教授=学習のプロセスにおけるイニシァティヴをもっているということであった。
最後に、単純化と事実の一面化の危険を承認するという前提のもとに、我々が今までに分析してきたアウグスティーヌスにおける教授=学習の成立とことばの問題をめぐる基本的概念の構造的図式化を試みたい。
magister interior 内的教師
veritas 真理
提 exhibere docere 教える
示 monstrare illuminare 照明する
す praebere res videre 見る
る (docere) 事物
verbum verbum
exterius interius
外的ことば 内的ことば
commonere想起させる
admonere 勧める signum
loqui 話す 記号
interrogare 質問する
cogitare 思考する
intelligere 知解する
discere 学習する
magister exterior
discipulus
外的教師 生徒
右側の枠内に書かれたものは、いわば生徒の内部での学習の内的プロセスである。「内的教師」は生徒の主体のうちに統一されている。もちろん、「内的」といっても、神が単に個人の精神に内在するという意味ではない。そういう意味から云えば、内的・外的という範疇を我々は超え出る必要があろう。ここでは、生徒が内なる真理の光に照らされて、「外的教師」つまり人間の教師が外的に提示する事物や外的ことばを、「内的ことば」へと転換するおもむきを表そうとしているにすぎない。「外的教師」が左側の枠として、生徒の教授=学習過程の外部に立つのは「外的教師」として生徒に対する限りであって、彼が自ら学習する者である限りでは、むしろ右側の枠内の構造と同じ構造を持つと云わなければならない。事物と 外的ことばとは、生徒の学習の成立にいわば外的にかかわりを持つと考えられるのであって、生徒はそれらのものを自らの自発性と能動性において、内化しなければならない。そうでなければ、単なる模倣はあっても、学習はないといわなければならないであろう。教師の話すことが、いわば照明の如き役割を果たすことにも注目すべきである。
註
1)Oeuvres de Saint Augustin, 6, Bibliotheque augustinienne, Paris, 1952, De magistroを使用。アウグスティーヌスの『教師論』については既に、石井次郎、アウグスチヌスの「教師論」について、教育学研究、第28巻第1号、昭和36年3月、という研究がある。
2)いずれもOeuvres de Saint Augustin, 11, Bibliotheque augustinienne, Paris, 1949, Le magistere chretien 所収。
3)Oeuvres de Saint Augustin, 12, Bibliotheque augustinienne, Paris, 1950, Les Revisions, p.340.
4)ibid.
5)George HowieはEducational Theory and Practice in St. Augustine, London, 1969において次にように云っている。「教えることと学ぶこととは二つの異なった活動ではなくて、一つの過程であり、そこにおいて教師と教えられる者との間には明瞭な区別はない。学習者は彼自身の教師であり、そしてすべてのよき教授のとくちょうである精神の相互作用において、教師は彼が教えているときに自ら学習する。教室において、教師と学生は同時に『自らを教え』或いは『自ら学ぶ』。それは同一の活動を二つの異なった立場から見ることである。」p. 205.
6)De mag., X, 34.「ことばと呼ばれる記号によって我々は何も学ばない。」
7)S. Thomae Aquinatis, Quaestiones Disputatae, vol. I. De veritate, Romae, 1948, Quaestio XI. De magistro, arg. 1, ad 8. homo exterius doceat, sed ...solus Deus docet interius.
8)De mag., XII, 40, XIV, 46 etc..
9)De mag., XI, 36.「ことばが発音されるとき、我々はそれが何を表しているかを知っているかまたは知らないかのいずれかである。もし我々がそれを知っているなら、学ぶよりもむしろ想起させられるのであり、逆にもし知らないのならば、想起することさえないのであって、恐らくは探求するようにと勧められるのだ。」
10)De mag., I, 1, "aut docere, aut discere."G.Howieの指摘によれば、「ここで使われている『叉は』というラテン語の接続詞はautであって、それはvelという接続詞と対照的に、相互に矛盾的な命題を指示する。」従ってアデオダートゥスは教えることと学ぶこととを明確に区別している。Howie, op. cit., p. 185.
11)De mag., X, 35.「私は自分の知らなかった事物を云われたことばによって学ぶのではなく、その事物を見ることによって学ぶのである。」
12)De mag., XI, 36.「眼、或いはどれかの身体の感覚、或いは精神そのものの前に私が認識することを望んでいるものを置く(praebere)人は私にあることがらを教える人だ。」
13)De mag., XII, 40, "in illa interiore luce veritatis"
14)Oeuvres de Saint Augustin, 6, Note complementaires. 2. Theorie de l'Illumanationの項を参照。
15)De mag., XII, 40. "cernens, qui de re tota illam lucem consulere non potest."
16)「学ぶ」ということを、アウグスティーヌスは『告白』の第10巻第11章において「記憶がばらばらと無秩序にふくんでいたものを、思惟によって寄せ集め、注意深く配慮し、以前に分散しかえりみられることなくかくれていたその同じ記憶の中に、いわば手近におき、すでに親しみ深くなっている心を、それにむけさえすればすぐでてくるような状態にすること」だと説明している。『世界の名著 14 アウグスティヌス、告白』山田晶訳、p. 344。
17)De mag., XIV, 46. "ut ad eum intro concersi erudiamur."
18)De mag., X, 30."aliud esse loqui, aliud docere".
19)De mag., VIII, 23. 同様のことが『魂の大きさについて』XXXII, 65において、太陽を例にして云われている。
20)De mag., VIII, 22.
21)De mag., VIII, 23.
22)De mag., X, 33.
23)ibid.
24)De mag., XIV, 45.
25)De mag., XII, 40.
26)ibid.「それ故、私はあなたの能力が自分だの内的教師に聞くことができる力をもつようにあなたに質問しなければならなかった。」
27)De mag., XIII, 41.
28)De mag., IV, 9.
29)De mag., I, 2.
30)そもそも「外的ことば」は物体的側面、つまり音声や文字と非物体的側面、つまり意味から成り立っている。物体的側面を欠いたことばは広い意味では「内的ことば」ということができる。しかし心の中にあるとしてもシラブルをもち、時間の幅を保有することばは「外的ことば」のイメージをもっているから、厳密に「内的ことば」というわけにはいかない。
31)Oeuvres de Saint Augustin, 16, Bibliotheque augustinienne, Paris, 1955, La trinite(L.VIII-XV)
32)De trin., IX, x, 15.
33)De trin., IX, vii, 12.
34)De trin., XV, x, 17.
35)ibid.
36)De trin., XV, x, 18.
37)ibid.
38)De trin., XV, xi, 18.
39)ibid.
40)ibid.
41)ibid.
42)ここでは人間のことばについてのみ言及する。J. Moingtによればverbe mental(parole du coeur immanente a la memoire)について、次の点が指摘できる。
1)内的なことばは、それを生み出す知識のうちに先在し、それと同じ内面性、同じ本性をもち、ちしきにおける真の再生産であり、精神のうちにとどまっている。
2)内的ことばは外部に自らを現すために物質的音声を引き受ける。
3)しかし、我々のことばは記憶のうちにあるところのものの正確な再生産であるが、それは外的な顕示によってでなく、永続的な内面性によってである。
4)ことばは行為の必然的根源である。
5)ことばは存在することができるが、ことばなしには行為は存在しない。 43)G. Howie, op. cit., p.203.
44)De catechizandis rudibus, II, 3.
45)De doctrina christiana, I, ii, 2.
46)De quantitate animae, XXXII, 65-67.
47)De mag., XIV, 46.
(昭和45年12月15日稿了)
Resume
Le principe de l'enseignement et le probleme du langage dans "Le maitre" de saint Augustin
par shigeru Mikami
Nous examinons ici deux prolblemes:
1. La structure du processus de l'enseignement, et
2. La fonction de la parole dans l'enseignement.
1. Le maitre--"maitre interieur"et "maitre exterieur"
Saint Augustin a ecrit "Le maitre"(De magistro) en 389. Ce petit dialogue, entre Augustin et son fils unique Adeodat, propose une these: Le maitre humain n'enseigne pas. Que veut dire saint Augustin par cette phrase? Il est ecrit dans l'Evangile: "Un seul est votre maitre, le Christ."Il n'y a pas de maitre pour enseigner la science a l'homme sauf Dieu.
Le maitre exterieur, c'est-a-dire le maitre humain parle seulement pour faire se ressouvenir ou pour avertir. Le langage du maitre humain ne fait rien d'avertir, de faire se ressouvenir.
L'eleve n'apprend pas quand il entend des paroles du maitre exterieur, mais bien quand il voit les choses elles-memes.
Le maitre interieur habite dans l'eleve et illumine l'espri de l'eleve pour lui faire comprendre les choses. On dit aussi que le maitre interieur est la verite, donc c'est la verite meme qui enseigne l'homme. L'eleve se tourne interieurement vers le maitre interieur par les paroles du maitre exterieur, et recoit ses lecons.
2.La parole --"parole interieure"et "parole exterieure"
1) "parole exterieure"--parole du maitre humain.
"Autre chose est parler, autre chose est enseigner." Les choses qye nous disons ne sortent pas de notre chouche. Les mots sont les signes des choses.
Les paroles du maitre humain ne sont pas la cause directe du fait que l'eleve apprend quelques choses. Les paroles exterieures guident les eleves vers les choses elles-memes; elles font que l'eleve se ressouvient des choses qu'il sait deja; elles ne sont pas le medium qui apporte les idees du maitre humain a l'esprit de l'eleve.
Les paroles du maitre humain peuvent inviter l'eleve a chercher les choses qu'il ne connait pas encore. Le matre aide l'eleve par son interrogation a apprendre interieurement. En ce cas, l'interrogation fait la fonction d'un coseil qui fait que l'eleve consulte la lumiere interieure.
2) "parole interieure"fait apprendre.
Saint Augustin a discute sur la "parole interieure"dans "De la Trinite". "L'homme parle en lui-meme dans le fond de son coer, autrement dit, parle lorsqu'il pense", "Les pensees sont les paroles du coeur".
Les paroles exterieures ont aussi des conditions physiques, mais les paroles interieures sont spirituelles. Les paroles exterieures sont des signes de paroles interieures.
Le maitre humain peut transmettre directement des mots a l'eleve, mais non ses pensees, ses idees. Les paroles interieures sont essentielles pour apprendre ou savoir.
神奈川県立栄養短期大学紀要第3号 昭和46年3月 pp.59-67から転載
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